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唯識-仏教では、人間の深層心理まで深く分析することで、人間の煩悩の仕組みを説いています。

末那識(マナ識……自我に執着する深層に潜む意識)にある無意識に自分にこだわってしまう煩悩について。

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 マナ識の奥深くに潜んでいる

 4つの最も根本的な煩悩

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1. 我癡(がち)

縁起(すべての存在は、繋がり合って存在している)・空(この世のすべての事象は、移り変わっていて、良いも悪いも無い)という宇宙の真理について無智(無明)なために、あたかも単独で存在している「自分」があると思って、自分にこだわり執着する根本煩悩

2. 我見(がけん)

無意識に「自分は、〇〇という者です」と自分について思い込んでいる根本煩悩。

つねに自分にこだわって現実を見たり、感じたりする。

自分とは、他と分離した実体であると錯覚している。

ただし、社会生活をする為には欠かせない煩悩です。

3. 我慢(がまん)

自分以外のものと比べることで、自分自身を確かめようとする根本煩悩。

自分が頼りで、自分を誇りに思います。

4. 我愛(があい)

自分に愛着を持って執着する根本煩悩。

このように、マナ識(自我に執着する深層に潜む意識)のなかには、「自分が」「自分に」……と「自分」に執着する煩悩があります。

そして、深層の四つの根本煩悩が元になって、さらに六つの根本煩悩が表層の意識にも生まれて、そのために様々な問題が起きていくのが、人間の人生なんです。

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 意識上にある六つの根本煩悩

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(とん)……貪る(むさぼる)心は、貪欲(どんよく)な心です。

 

人間には、生きていく上で必要な欲があります。

ところが、「自分は宇宙の全体から分離している存在だ」という分離意識が、恐怖や不安や欠乏感を生み出します。そのために必要以上に追い求めようとする貪欲な想いを持ってしまうから、執着という苦しみが生まれます。
 

(しん)……自分の思い通りになるのを邪魔する相手は許せない、消えてもらいたいと強く怒る心です。

 


(痴・ち)……愚か(おろか)な心です。

別名が、愚癡(ぐち、愚痴)

四つの根本煩悩の我癡(がち)、無明から生まれる煩悩です。

 


(まん)……自分と他人を比較することで、うぬぼれる心です。

 


疑(ぎ)……エゴが自分の存在価値を見出すために作ってきた信念・アイデンティティを守るために、仏教の真理を疑って、アイデンティティを壊す真理を受け入れないようにするエゴ心です。

 


悪見(あっけん)……真理を知らないだけでなく、間違ったことを強く思い込む心です。

さらに、これらの根本煩悩からは、20種類もの随煩悩(ずいぼんのう)が生まれてくるんですと。。。

あぁ、人間って、わたしって……

煩悩だらけなんですね。。。

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 随煩悩は、人間の心に

 頻繁に浮かんでくる想いです

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忿(ふん)…強い怒り

(こん)…恨む

(ふく)…ごまかす

(のう)…悩む、悩ませる

嫉(しつ)…ねたむ

(けん)…ものおしみする

(おう)…だます

 

(てん)…へつらう


(がい)…傷つける
 

(きょう)…おごり
 

無慚(むざん)…内的無反省
 

無愧(むき)…対他的無反省
 

掉挙(じょうこ)…のぼせる
 

惛沈(こんじん)…落ち込む
 

不信(ふしん)…真心の欠如
 

懈怠(けだい)…おこたる
 

放逸(ほういつ)…いいかげん
 

失念(しつねん)…物忘れ
 

散乱(さんらん)…気が散る
 

不正知(ふしょうち)…正しく知らねばならない事を、間違って理解する

 

ものおしみをしてしまう……慳(けん)

という言葉をみてみましょう。

(けん)は、訓読みで「おしむ」と読みます。

意味は、けちけちする。いじわるな。むごい。

邪険/邪慳(じゃけん)とは

相手の気持ちをくみ取ろうとせずに、意地悪くむごい扱いをすること。

自分と他人は、分離していて別々だ」と錯覚している我癡(がち)という根本煩悩があるから、「自分が得すること」に執着します。

すると、他人に対して無条件の愛を出しおしみしてしまい、邪慳な想いや行動になってしまうんですね。

でも、ほんとうは、もともと分離などしていない。

だから、人間は、相手に対して愛の無いことをすると、いや~な感覚を持つんですね。

相手に対してすることは、結局は自分に対してしているってことですから。

相手に対しての想いや言動には、いつも、「自分自身に対しての想い」が現れているんです。

唯識-仏教を学びたい人に最適の入門書です。

​すぐに実生活に活かせますよ。

唯識-仏教が教える 人間の煩悩の仕組み

~人間は、なぜ悩むのか?~

自己中心に、他を差別する対立意識で

「自分にとって、都合が良いか?悪いか?」

と裁いてしまう煩悩が、悩みを生み出す

 

煩悩は、仏教の教えの一つで、真実(智慧)観えなくさせ、身心を乱し悩ませて、正しい判断を妨げる心の働き。

自分と他者を区別する分離意識です。

雲が煩悩だとしたら、雲の上に広がっている「常に、雲一つない青空」が人間の本質(魂、真我)。

人間の本質は、分離意識のない無条件の愛のエネルギーです。

なので、曇りのない純真な心では「無条件の愛に基づいて行動をすること」を望んでいます。

 

しかし、人間の心には、意識できる想いから、無意識の想いまで、実に多くの煩悩があります。

 

そのため、思考は無意識に、「自分にとって有利になるようにしよう」と損得を判断したり、自己中心に考えます。

 

無条件の愛でみちている純真な心が煩悩に隠れてしまうと、

たとえば

「あなたがわたしの望み通りにしてくれるなら、わたしもあなたの望み通りにしてあげる」

などのように見返りを求めたり、かけひきをして、自分のエゴにとって都合の良い条件でなければ愛を与えない……、

つまり条件づけの愛になってしまうんです。

この例のように、自分と他人を区別し、「自分の得」にこだわって条件づけする煩悩で心が曇り、無条件の愛(魂)を見失うと……

寂しさ・悲しみ・不安・恐怖・怒り・劣等感・無価値感・損得勘定・欠乏感・焦燥感・苛立ちなどを抱えてしまいます。

 

毎日が、やがては人生全体が煩悩によって振り回されてしまうことも少くありません。

 

 

様々な煩悩が原因で、いつも心がモヤモヤしたり、イライラしたりしていると、人間関係や金銭や健康などの現象にも色々なトラブルが起きてきます。

 

たとえば、人間関係のトラブルが起きたときには、相手に対しての怒りや不満が増大しがちです。

 

でも、自分が不愉快なった原因を「相手のせい」にしてしまうと、自分の心の中に潜んでいる問題の根っこ(煩悩)に気づくことができません。

これって、すごくもったいないことなんです。

トラブルが起きた時こそ、意識を向けるのは相手の落ち度ではなく、自分の内面です。厳しいことを言うと、相手がどんなに理不尽で嫌な言動をしてきたとしても、です。

逆に、

「相手の悪いところをなんとしても正そう!」

などと相手を変えようとしてしまうのは、まさに煩悩の働きですから、自分自身の煩悩によって、ますます自分の首を絞めるようなものです。

自分の内面にある問題(煩悩)に気が付けないうちは、残念ながら、トラブルを引き起こす自分のままでいる選択肢しかないからです。

 

自分の内面に向き合うときには、自分を責めないことが大事です。

(自責や罪悪感や自己否定なども、煩悩から生まれる想いです)

「どうせ、悪いのは自分のせいだ」などと、むやみに自分を責めたり、自己卑下する必要はありません。

それよりも、まず、

「自分の内面には、このトラブルを解決する力がある」

と自分を信頼しましょう。

 

つまり、人間関係や金銭や健康面などに恵まれて、おだやかな心でしあわせに生きるには……

「何度もトラブルを繰り返した原因になっている煩悩に気づいて、そして自分の煩悩を小さくしていく」

と自分の意思で選択することが大事なんですね。

愛の無いことを想ったり、口に出したりすると、いや~な感覚をもてるのは、「本来の純真な意識は、無条件の愛だから」なんです。

 

↑ここが、とても重要です。

心を澄ませて、

「ほんとうの自分は、ほんとうは、どうしたいと思っているんだろう?」

と無条件の愛からの声に、耳を傾けてみましょう。

 

自分の本質(ほんとうの自分、真我、魂、ワンネス)にアクセスするには、ハートに意識を向けて、愛おしいものに対して自然にわきあがってくる温かいエネルギーを感じてみてください。

 

嫌な感覚があることを相手にも自分にもしなければ、さわやかで、おだやかな、しあわせな気分でいられますよね。

 

できるだけ、気分のいい自分でいられるように、気分のいい方を選択していけたら、毎日が、人生全体が、ますます楽しくてすばらしいものになっていくと思います。

​参考文献:

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