「思い通りになればなるほど価値がある人生」というわけではない
- naoko-takemoto
- 2017年8月25日
- 読了時間: 7分
思い通りにならないことが、次から次へと起こることもあるのが人生ですね。
なにもかもが思い通りにならないとき、強い苦しみや感情の激流に押し流されているように感じることもあるでしょう。
しかし、わたしたちは何一つとして無意味な体験をしてはいないのです。
もし、どうしても、目の前の苦しい状況を乗り越えられないと感じて、そこから逃げるというのも、そのときの自分にとってのちょうどいい選択なのかもしれません。
また、苦しい体験がきっかけになって、自分の内側にある問題に気づくことができたら、今後の人生が豊かになってゆくのかもしれません。
いつも、今いるところが、ちょうどいい……
もしも今や過去において苦しい状況にいるのなら、その苦しい体験をすることに何らかの意味があるのです。
「思い通りにならないこと」を通じて学ぶことこそが、人間として生きる目的・意義・意味なのだと捉える生き方について書かれた飯田史彦氏のご文章を引用いたします。
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「思い通りにならないこと」こそが、この物質世界が生み出す価値の源ではないでしょうか。(中略)
私たちはみな「強い成長願望を持つ意識体」であり、自分の意志で地球という研修センターを訪れ、わざと自分自身に「思い通りにならない」という物理的環境を与えながら、自分を磨いているのではないでしょうか。(中略)
私たちは、なぜ生まれてくるのか……それは、生まれて来なければ経験できない貴重な学びの機会があるからこそ生まれてくるのであり、その機会、たとえば「死」や「病気」や「人間関係」などに代表される、「思い通りにならないこと」を通じて学ぶことこそが、人間として生きる目的・意義・意味なのだと言えるでしょう。(中略)
これまで、あなたは、「人生は、思い通りになればなるほど価値がある」と、誤解しながら生きてきませんでしたか?
このように、「思い通りになればなるほど価値がある」という大前提で生きるということは、常に「思い通りにならないこと(不運・失敗・挫折・トラブル・病気・死など)」に出会わないように逃げ回り、それらに見舞われてしまうことにビクビクしながら生きることになってしまいます。(中略)
「思い通りになればなるほど価値がある」という生き方の場合には、「思い通りにならないことは無価値」であるため、うまくいかないことに直面するたびに、「ああ、また無価値なことに時間・労力・お金などを浪費してしまった」という、喪失感・疲労感に襲われるだけだからです。
出典:

人間関係や経済状態などの様々な「思い通りにならない」自分の境遇に対して、不満や苦しさをまったく感じないで生きている人間は、ほとんどいないでしょう。
ところが、一人ひとりが「苦しみをどう捉えているか」によって、苦しみの感じ方は大きく違ってきます。
たとえば、自分の心(思考)の声に巻き込まれてしまって強い苦しみの渦中にハマってしまうのか……
一方、「わたしは、この苦しい状況から一体何を学ぶ必要があるのだろうか?」と考えて自分の苦しみを客観的に観るのとでは、大きな違いがあります。
ですから、困難に直面したときに重要なことの一つは、「苦しみを感じるような思い通りにならない体験の中にこそ、自分が飛躍し向上できる絶好のチャンスが潜んでいる」ということに気づいているかどうかなのです。
もしも、自分が今、攻撃的な相手の格好の攻撃対象になって苦しんでいるとします。
そういう時、たいがいは、相手の暴力的な言動にプライドが傷ついたり、腹を立てたり、惨めな思いをしたりして、相手がどうしてこんなふうに暴力的なのかを観察したり検討したりします。
そして、相手は家庭環境にストレスを抱えていたりして、欲求不満やストレスのはけ口に、自分を攻撃してくるんだろう……などと予想したりもします。
それから、「どうしたら、相手に攻撃されないで済むのか?」を考えて、攻撃されないように気をつけたりもします。
けれども、こうやって考えていても、残念ながら問題は解決されないでしょう。
それどころか、このままの考え方だと、加害者と被害者という共依存関係をどんどん強固なものにしていく恐れがあります。
では、解決の糸口はどこにあるのでしょう?
目の前の相手や境遇は自分自身の心を映し出していますから、「相手や境遇の中に問題があると感じているのであれば、自分の心の中にある問題に気づく必要がある」ということなのです。
自分が体験する現実のあらゆる問題は、自分の心の中にある問題が反映されていますから、すべてが自分の責任だと捉えることもできます。
それなのに、相手の言動や状況にばかり意識を向けていると、肝心の「自分の内側」を観ることができません。
もしも、相手の立場に立って相手の気持ちになってみることができたら、一方的に相手が悪いわけではなく、自分でも気づいていない落ち度があることにも気づけるかもしれません。
たとえば、攻撃的になっているのは、相手が素直に聴かないことに対して怒っているのかもしれませんよね。
「自分は、いつも初心を忘れずに素直な気持ちでいただろうか?」といったん立ち止まって振り返ってみることも大事なことでしょう。
さらにここで、プライドと尊厳について明らかに観る必要があります。
もしも、相手が「あなたのプライド」を傷つけたと腹を立てているのであれば、相手が傷つけたのは「あなた」ではありません。
「あなたのプライド」というのは、「あなた自身(あなたの存在そのもの・being)」ではなく、「エゴ」だからです。エゴがプライドが傷ついたと感じて腹を立てているのです。
しかし、もしも相手が「あなたの尊厳を踏みにじった」と感じているのであれば、相手は「あなたの存在自体の尊厳」に触れたということです。
尊厳というのは、「すべての存在そのものの絶対的な価値」です。何かができるとか、何かを得ているとかの相対的な価値判断で増えたり減ったり失くなったりするものではありません。ですから、いくら相手があなたの尊厳を踏みにじったとしても、あなたの尊厳を傷つけることは誰にもできませんし、あなたの存在そのものの価値は変わりません。
ここで大事なことは、加害者と被害者という共依存関係になるとき、加害者が尊厳を踏みにじる言動をするとしたら、「自分の内側を観ること」が必要だというメッセージです。
「被害者自身が、自分の尊厳を認めていない」ということに気づかせてくれているチャンスだからです。
人間は、自分の尊厳(すべての存在の絶対不変の価値)を見失ってしまうと、自分がちっぽけで、なんのとりえもなくて、弱くて、無価値だと感じて、不安や恐怖や無力感が強くなります。
すると、その無価値感や恐怖心から、自分の価値を高めて欠落を埋めようとするために、エゴが強くなります。
そして、エゴのプライドを強固にすることで自分を守ろうとするから傲慢になったり、卑屈になったりします。
「攻撃する側」と「攻撃される側」、「傲慢」と「卑屈」は、表裏一体です。
エゴのプライドが傷つけられることを恐れる同士が、表と裏を体験します。
イジメられるのを恐れる同士が、いじめっ子といじめられっ子の表と裏になります。
大人のパワーハラスメントは、子ども時代のイジメっ子と同じ心理で、イジメられるのが怖いから攻撃的な態度で威圧してイジメられないように身を守ろうとする「弱い自分を隠すために、自分を強く見せようとするエゴ」の現れです。
国家間の武力闘争のような強大なエゴによって作られる大きな問題も、根本的には、「イジメられるのを恐れる同士が武力で相手を威圧する」という子どものイジメと同じ構図です。
絶対的な尊厳を見失っていると、エゴが強くなってしまい、強烈に相対的な表と裏の関係を体験できる相手を引き寄せることになります。
つまり、攻撃する者と攻撃される者という共依存関係をつくってしまう状態を根本から解決するために、最も大事で欠かせないのは、エゴに囚われてプライドを守ろうとしている無意識の相対的な次元から目覚めて、「being・尊厳を認めて生きる」ことなのです。
「being・尊厳を認めて生きる」とき、人間は傲慢になったり卑屈になったり、自己卑下したり自慢したりするエゴに頼る必要がなくなります。
傲慢と卑屈は「エゴ」から、自信と謙虚さは「being の尊厳と愛の源」から、それぞれ現れます。
自信をもって、謙虚に生きることができたら、思いやりと愛に充ちた暖かい人間関係が築けるでしょう。
すべてを「思い通りにしよう」としているのはエゴであって、エゴの望みを叶えることが人間にとっての大事なことではなかったのだ……と目が覚めたときに、一生のなかには当たり前のことなど何もないことに気づきます。そして、すべての存在に感謝があふれます。
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